現在、フランス語は7大陸のうち5大陸で話されており、25か国以上で公用語として使われ、その他ビジネスや生活で広く使われている国も30か国以上あります。しかし、フランス語はどのようにしてここまで普及したのでしょうか?どのくらい昔から使われてきたのでしょうか?また、時代とともにどのように変化してきたのでしょうか?

英語をはじめとする他の多くの言語と同様、フランス語の歴史は征服、文化の混合、標準化の歴史であり、地理、政治、威信のすべてが関わっています。では、これからフランス語の歴史をたどる冒険に出発しましょう!On y go!(フランス語 + 英語の造語で「さあ行こう!」という意味です😉)

Il était une fois… (昔々...)

紀元前800年頃のフランスに相当する地域には、3つの民族が存在し、それぞれの言語を使って生活していました。リグリア人(フランス南東部のプロヴァンス地方)はリグリア語を話し、イベリア人(フランス中南部のラングドック地方)はイベリア語を話し、アキタニ人(フランス南西部)はバスク語を話していたのです。これらの言語はいずれも、ヨーロッパの大部分で話されている言語の共通祖語であるインド・ヨーロッパ語族ではありませんでした。やがて多くの新興民族が複数のインド・ヨーロッパ語族の言語をもたらし、これらの既存言語と混ざり合ったり、勢力を競い合ったりしながら、最終的にはこれらに置き換わりました。このフランス語形成の過程で最も影響力が大きかったのが、次の民族です。

  • ガリア人(紀元前800年~西暦500年)
  • ローマ人(紀元前121年~5世紀)
  • ゲルマン民族(2世紀~6世紀)
  • ヴァイキング(9世紀~10世紀)

ガリア人

フランス人は自らの文化的・言語的遺産について語るとき、しばしば「我々の先祖のガリア人」という表現を使います。とはいえ実際のところ、その影響力はそこまで大きくありませんでした。ガリア人とは、現在のドイツからフランス北東部に渡ってきたケルト系の民族で、インド・ヨーロッパ語族に属するケルト語の一種であるガリア語を、この地に持ち込みました。ガリア語は既に絶滅していますが、現存する他のケルト語、例えばスコットランド・ゲール語アイルランド語、フランス北西部のブルトン語とは、親戚の関係にあります。

今のフランス語に残るガリア語の痕跡は決して多くはありませんが、いくつかの重要な遺産を残しました!たとえば標準的なフランス語で80を表す言葉は「quatre-vingts」、これは「4×20」という意味です。かなり奇妙なシステムですが、ガリア人をはじめとするケルト民族は、いわゆる「vigesimal(二十進法)」、つまり単位として10の代わりに20を使う方法(10本の手の指+10本の足の指で20が基準となる)で数字を数えていたのです!同じフランス語圏でも、スイスやベルギーなどの国では10を単位とするラテン式システムを使い、「huitante」または「octante」(8×10)と表現します。

ローマ人

ガリアの全盛期に、ユリウス・カエサル率いるローマ人が急速に勢力を拡大し、ガリアを征服・併合しました。紀元前121年頃にはローマ帝国に完全に支配され、人々は権力者の言語、つまりラテン語を習得するよう求められました。この時代に生まれた子供たちは家ではガリア語を話し、外ではラテン語を話していましたが、時代が進むにつれラテン語が優位となっていきました。その結果6世紀末ごろには、一部の辺境を除いたガリア全域で、ラテン語がガリア語に取って変わったと考えられています。

ゲルマン民族とヴァイキング

2世紀から6世紀にかけ、現在のフランスの北部および西部はローマ帝国の支配下にありましたが、その後半にゲルマン民族の大移動が起こりました。フランク人、西ゴート人、ブルグント人、アレマン人などのゲルマン民族が北や東から大挙して押し寄せたのです。このゲルマン民族の到来は、フランス語の語彙(特に戦争、農耕生活、色彩に関する単語)と発音に決定的な影響を与えました。最も大きな変化は、「シュワ」という新しい母音の導入と、ある時期以降にラテン語の発音から失われていた「heaume(ヘルメット)」や「héron(サギ)」などの言葉の「h」を発音する習慣の再導入でした。一方ヴァイキングは9世紀から10世紀にかけてフランスへの侵攻を続け、最終的にはノルマンディー公国(この国名自体がスカンジナビア語の「北の男」という言葉にちなみ命名されています)を築きました。ヴァイキングの言葉は航海に必要な語彙をもたらし、また地名としていくつかの痕跡を残しました。

フランス語が国の標準語となるまで


フランス語で書かれた最初の文献

フランス語(として認識できる言語)で書かれた最初の文献は、西暦842年に「ストラスブールの誓約」として知られる歴史上の出来事で書かれた文書です。当時、フランク王国のシャルルマーニュ大王の3人の孫は王国の支配権をめぐり対立しており、国全体の相続権を主張する長兄ロテールには、これに反発し権力を奪おうとする2人の弟、ルートヴィヒ2世とシャルル2世がいました。ルートヴィヒの率いる兵士たちがドイツ語を話す一方で、シャルルの軍隊では、ラテン語が変化を重ねフランス語になりかかったような地方言語が使われていました。シャルルとルートヴィヒは、兄のロテールを倒すため盟約を結ぶことにしましたが、その際にリアリティ番組「マッチングの神様」さながらにお互いに向き合い、他の兵士たちにも理解できるように、それぞれ相手方の言語で誓いを立てたのです。最終的にはヴェルダン条約によって3兄弟で仲良く国を3分割するというオチになるため、この誓約は地政学的には大きな意味を持ちませんでしたが、少なくとも言語学者にとっては記念すべき出来事となりました!

1方言が標準フランス語に

何世紀にもわたる変化を経た後、フランスで話される言語は、主に3つの方言グループに集約されました。北部の「Oïl(オイ)」方言、南部の「Oc(オック)」方言、そして東中央部の「Francoprovençal(フランコ・プロヴァンサル)」方言です。ちなみに「Oïl」も「Oc」もそれぞれの方言で「はい」を意味する単語であり、標準フランス語の「はい」である「oui[ウイ]」の親戚にあたります!

実は、5世紀から12世紀にかけては、方言が百花繚乱を極めた時期でした。どの村にも独自の方言があり、唯一共通語らしきものが存在したのは、市場のある町だけでした。そこでは各地から集まった人々が、取引を成立させるために、なんとかして意思疎通をはかろうとしていたのです。このような市場のある町の中で最も栄えたのがパリでした。3つの異なる水域の近くに位置し、肥沃な農業地帯に囲まれ、宮廷の庇護のもとで文学も発展したからです。その結果12世紀末には、出身地の方言を隠しパリ風の上品な言葉づかいをすることが「格好いい」とみなされるようになっていました。

1539年には、ヴィレール=コトレ条例により、これまでラテン語や地方方言で作成されていた行政文書にフランス語を用いることが法的に義務づけられました。この条例の布告により、ラテン語よりも格下の扱いを受けていたフランス語も、ラテン語同様に権威のあるものとみなされるようになり、科学や文学の出版物がフランス語で印刷されるようになったのです。このようにフランス語が広く使われるようになると、さまざまな言語的革新が起こりました。

  • 2つの言葉で動詞を挟む否定形。「je ne marche pas(私は一歩も歩かない)」「je ne bois goutte(私は一滴も飲まない)」「je ne mange mie(私はパンくずの一かけらも食べない)」。お気づきかもしれませんが、最終的には、これらのうち1つ「ne + 動詞 + pas」が否定の文型として定着しました!
  • 他の言語からの語彙の借用。ギリシャ語から「académie(アカデミー)」、ラテン語から「colombe(鳩)」、スペイン語から「bizarre(奇妙な)」、イタリア語から「(bagatelle(小さなもの)」。
  • リエゾンの誕生。語末の子音は基本的に発音しないが、これに母音が続く場合は発音するという発音規則。原題のフランス語では「les maisons(複数の家)」と言うときに「les[レ]」は「s」なしで発音されますが、「les amis(友人たち)」の場合「s」は「z[ズ]」として発音されます。現代のルールは1600年代に更なる変化をしたものではありますが、いずれにしても、リエゾンは今も昔もフランス語の発音において非常に重要なものとなっています。

国語としてのフランス語とアカデミー・フランセーズ

17世紀当時、フランスに住む人々の大半は地方独特の言語(ラテン語寄りのものからゲルマン語寄りのものに至るまで、多種多様でした)を話し、いわゆる「標準語」では簡単な会話をすることさえできないという状況にありました。1635年、言語を標準化・監視し、外部(外国)との接触による不必要な変化を防ぐという使命のもと「Académie française(アカデミー・フランセーズ)」が設立され、その主導によって2つの劇的な変化が起こりました。単語の発音の標準化、つまりどの方言の発音を「正しい」とみなすかが決定され、さらに、方言での発音に従って千差万別の綴り方をされていたスペルも、標準化されたのです。

フランス政府はその後何世紀にもわたって、領土全域でフランス語を標準語とし、地域による言語差をなくすため、国を挙げた普及活動を行いました。この国家的事業の副産物としては、学校や職場などの公的な場ではフランス語を使いつつも、家庭ではその土地の言語を好むというバイリンガリズムが生まれました。フランス政府はまた、試験、行政文書、就職など、あらゆる機会でアカデミー・フランセーズが定めた文法の使用を徹底しました。この政策は第一次世界大戦で成果を上げ、部隊の編成が地域単位ではなく国単位で行われたにもかかわらず、コミュニケーションをかなり容易に行うことができました。

フランス語はどのように世界に広がったか

17世紀から19世紀にかけて、フランスは北米、カリブ海諸国、インド、アフリカ、インドシナ、南太平洋に植民地を築き、領土を拡大するとともに自国の言語と文化を移植しました。その際にこれらの地域社会にもフランス語の使用を求め、その結果としてハイチ・クレオール、アンティル・クレオール、モーリシャス・クレオールのようなフランス語を元にしたクレオール言語が生まれることになりました。

一方、フランス本土では、国民の使う言語をフランス語に統一するという政策がほぼ成功しました。しかしそれ以前の地域独自の言語の名残は、今日でも、標準フランス語に付随する地域特有の「訛り」として色濃く残っています。ニュース番組などで使われるいわゆる「訛りのない」フランス語については、トゥール(フランス北西部の都市)出身者のものがそうであるとよく言われますが、他のフランス北部でもあまり変わりはなく、このようなアクセントは「パリ風」または「メトロポリタン風」と呼ばれています。その昔に「市場の標準語」として幅をきかせたパリの言葉遣いは、今でもその威信を保っています!

英語の語彙の流入

近年、多くの言語と同じく、フランス語の語彙にも英語由来の借用語が加わってきています。特にテクノロジー、ビジネス、ポップカルチャーなど英語文化の影響力が大きい分野でこの傾向が強く、21世紀のフランス語では「un e-mail(Eメール)」「un meeting(ミーティング)」「un happy end(ハッピーエンド)」のような言い回しは、もはや「la révolution(革命)」や「une baguette(バゲット)」と同じくらいありふれたものとなっています!一方、17世紀以来の伝統を誇るアカデミー・フランセーズは、言語学的な「好ましくない影響」を食い止め、英語の借用語に相当する正統的なフランス語を規定するための活動を今日も続けています。たとえば上記の用語に対しては「un courriel(電子メール)」、「une réunion(会議)」、「une fin heureuse(幸せな終わり)」という、よりフランス語らしい代替語が提示されています。ただし、言葉を取り締まろうとするアカデミーの試みは、必ずしも成功しているとは言えないのが現状です。

また、カナダのケベック州にもOQLF(Office québécois de la langue française/ケベック州フランス語局)と呼ばれるフランス語アカデミーがあります。行っている活動自体はアカデミー・フランセーズと類似していますが、その判断基準は独自で、驚くべきことにフランス以上に保守的な側面があります。例えば「un smartphone(スマートフォン)」はフランスでは完全に受け入れられている言葉ですが、ケベック州では米国かぶれとみなされ、代わりに「un téléphone intelligent(情報処理機能を持つ電話)」という言葉が望ましいとされています。OQLFによる「英語化の取り締まり」の試みは、カナダ国内では一定の敬意を持って受け止められてはいますが(これは20世紀にケベック州が積極的にフランス語保全政策を行ったためでもあります)、それでも言語の接触と混合という避けようのない現実を前に、単なる時間稼ぎではないかという印象もぬぐえません。

フランス語は進むよどこまでも

さて、フランス語の歴史と、歴史の中でフランス語がどんな言語と交わり、どれだけ多くの言語や文化から言葉を吸収してきたかについて、その概要を理解していただけましたでしょうか?ここから言えるのは、どんなに法律で規制したとしても言語の「進化」を妨げることはできない、ということです。なぜなら言語とは、それを使う人間と同じくらい多様な、生きて呼吸している存在だからです。現在のフランス語は、ガリア人、リグリア人、ローマ人、そしてゲルマン民族が共同で織りあげた複雑な模様の「言語のタペストリー」。これを学ぶときにはぜひ、フランス語の裏にある歴史や文化について、思いを馳せてみてくださいね!